夏。
鬱陶しい梅雨もようやく終わりを告げ、うだるような暑さがやってきた。
暑い、というよりも熱い。 コンクリートから湯気が出ている気がするほどの熱反射。
近すぎる太陽が、ジリジリと音がするように自分を焦がしてゆく。
でも、決して嫌いな季節じゃない。
その年は珍しく仲代ジムで夏の合宿をやることになった。
参加者を集うと、近々試合を控えている人間を中心に10人程集まった。
仲代会長は、その間残った人間の面倒や、ジムの残務処理があるため、 引率は伊達が行うことになった。
「お前ら遊び気分で参加すんじゃねーぞ!」
参加する人間たちを前に、腰に手をあて、リーダー気分で発奮する。
「…伊達さんが一番遊びたそうじゃないですか」
何人かの人間からひやかす声が聞こえた。
そっちを一瞥して、眉を上げる。
「バカヤロー!俺だってもうすぐ防衛戦なんだぞ、そんなバカンス気分じゃねっての」
『…どうだか…』
沖田は、目を伏せて口だけで笑った。
「…おい、沖田何か文句あんのか?あぁ?」
目ざとく見つけられて、低く責められる。
沖田は、目線を上げて視線を合わせた。
伊達はそれを無視して、さらにテンションを上げて声を高めた。
「手加減しねーぞ!ついてこれない奴はどんどんおいていくからな!そのつもりで来いよ!以上!」
8月の、一番暑い上旬。
砂の熱さで恐らく40℃近い気温を越えてるであろう海岸線を、走りこむ。
波が高めで、岩場も多いため、海水浴場としては開放されていない海岸は、泳ぎに来ている人間は
皆無だった。
それだけはある意味救いだったのかもしれないが。
砂に足をとられるため、普通の道より体力を消耗するロードワークに、すでに脱落する人間が続出する。
しばらく走った後、息も荒げに伊達は振り返った。
3mほど後ろに沖田が走ってきている後ろは、かなり遠くにグロッキーになっている集団が見えた。
「…ち、しょーがねーなー…待ってやるか」
そんなにハイスピードで走ったつもりもなかったが、かなりの差がついてしまっていた。
「だから、うちの奴らはスタミナが足りねぇとか言われんだよな…」
他の人間の基本体力のなさに嘆きながら、伊達は呼吸を整えていた。
伊達に追いついた沖田が口を開く。
「…どうしたんスか…?行かないんスか」
何だかんだいって、着いてきているこいつはやはりそれなりに頑張ってるんだな、とチラと思ったが、何だか無性に癪に障ったので、わざと突き放すような口調で返す。
「あいつら遅ぇからよ。待ってやろうと思ってよ」
視線は沖田に返さず、海岸線沿いに遠くを見る。
「…行きましょうよ」
「あ?」
いぶかしげな顔で沖田を見る。
「できない奴らに合わせるこたないですよ。あんただって練習にきてんだから。みんな自分のために
やってんスから」
一瞬、何いってんだ、と思ったが、考えてみるとその通りでしかなく、伊達は責めようと思って開いた
口を、飲み込んだ言葉とともに静かに閉じた。
「俺は行きますけど?」
「…そうだな。あいつらも何とかするだろ」
そうしてまた止めていた足を蹴りだした。
午前、午後とハードなスケジュールをこなして、ようやく本日の練習が終了した。
夜の自由時間にも、とても外をうろうろする気力のある奴はおらず、早い奴はもう布団に
入って爆睡していた。
「げー、しんどいぜ〜。こんなのが3日も4日も続くのかよ〜」
「暑さと疲れで食欲もでねーよ、俺」
10畳程の部屋で、自分の荷物をかたしながら皆口々に不満をもらす。
初日なのだから仕方がないことなのだ。これに慣れなければ、これからやっていけないこともみなわかっている。けれどどうしても愚痴が出てしまう。
黙々とバッグの中を整理する沖田に、コールドスプレーを足にしながら神崎が話し掛ける。
「お前初日から飛ばしてたなー。大丈夫かよ」
ちらっと神崎の方を一瞬だけ見て、また視線を元に戻す。
「これくらいだってことはわかってましたから。――もう俺負けるわけにはいかないんで」
神崎は沖田のいつもの投げやりで、冷たい言い方に少し引っかかったが、いつものことなので流して返した。
「そりゃ俺だってそうだけどよ…」
神崎は口をとがらせて反論しようとした。
「伊達さんは特別だぜ?あの人のメニューについていける方がすげえよ」
神崎の話を聞いているのかいないのか、沖田は立って部屋を出ていってしまった。
――あいつ、幕之内戦以来何か変わったよなー…
そんな沖田の後姿を見ながら、神崎は思っていた。
夜になり、風が出てきた。
海から少し離れた坂の上のペンションのような洋風旅館。
夜11時を回った所だったが、明日の朝も早いのでTVなどの娯楽も楽しまず、すっかり就寝していた。
10畳程の部屋に布団を敷き詰めて、雑魚寝状態。
寝相の悪い者、いびきがうるさい者、そんな男ばかりでむさくるしい間を通って、沖田は部屋の外にあるバルコニーに出た。
「伊達さん」
前を開けたシャツを風になびかせて、バルコニーの手すりに腕をのせ、海のある方を見ている伊達がいた。
「…おぅ」
伊達は沖田の姿を認めて少し笑った。
沖田は静かに伊達の横に立つと、伊達が見つめている方向と同じ所を見た。
暗闇にかすかに聞こえる――波の音。
「お前も眠れねぇのか?」
お前も――
「いえ、まぁ…」
「俺は神崎のいびきがうるさくてよー。全然寝れねぇよ。顔に右叩き込んでやろうかと思ったぜ」
パンチを繰り出すポーズをとる。
はは…と声に出さずに、静かに沖田は笑った。
「明日もしんどいから、もう寝ろよ。ついていけなくなんぜ」
沖田の方を見ないで、暗闇の空を見ながら静かに話す。
「…大丈夫ですよ。ついていきますよ」
あえて沖田は伊達の顔を見ながら、少し強い口調で返す。
シャワーを浴びて少し下りている前髪が風に揺れるのを見ながら、沖田は胸が熱くなるのを感じた。
ふ、と。
伊達が押し黙る。
沖田が自分の方を見ていることを意識してしまう。暗がりでその表情は見えないが――視線の端に映る沖田は明らかに自分をまっすぐ見ている。
わかってる。
この空気は。
「伊達さん…」
沈黙を破って、沖田が口を開いた。
「…ん」
わかっているのにわざとわからないふりをする。
自分を、ずるい男だと認めながら。
「…キスしていいスか」
聞くなよ…と心で突っ込みながら、まだ発展途上の年下の男をまだ焦らす気になる。
『まだ』自分が「上」にいることの余裕――伊達はそれを楽しんでいた。
「…みんないるだろ…」
まだ沖田と視線を合わせてやらない。
暗闇の中の沖田の影が動く気配がした。
「寝てますよ…」
近づいた、と思ったときにはもう唇は塞がれていた。
少しびっくりした表情をしてから、沖田の顔を見ながら自分も目を閉じる。
ざあ、と風が近くの木々を揺らす。
木の音と、波の音と、風の音しか聞こえない中に心臓の音が混じる。
次の日も朝からハードな練習メニューが組まれていた。
朝から晩まで練習づくめで、夕飯時にはみんなぐったりして、早々に就寝。
そんな毎日が続いていた。
そしていつも夜半に伊達と沖田はバルコニーで会うことも、日課となっていた。
最終日。
練習をそこそこに切り上げ、早めに打ち上げをかねた夕飯をとった。
お疲れ、の乾杯の音頭をとるために伊達が立った。
「お前ら4日間よく頑張ったな。最初はそうなるかと思ったけどな。この調子でジムに戻っても
ちゃんとやれよ!じゃあお疲れ!」
グラスの音が響く。
「せっかくこのメニューに慣れてきたと思ったら終わりかよ」
「最後にはロードワークにもついていけるようになったもんなぁ、俺」
「めちゃくちゃメシうめぇよ」
最初じゃ不満ばかりいっていた皆も、終わるとなると名残惜しそうに口々に話し出す。
しばらくして、買出しの奴らが店からどっさり花火を買い込んできた。
「そうそう、これから花火やるからよ。バケツとか用意しとけよ」
夜の海。
まるで暗闇がこちらに向かって押し迫ってくるような。
たまに見える白い波がやけに目について。
波が寄せる音だけが繰り返す。
それぞれに花火をもって火をつける。
「バカヤロ!こっち向けんな!」
「何だよこれ火ィつかねぇよー」
まるで子供のようにみんなはしゃいでいた。
それを伊達は笑いながら見つめていた。
「いいモンだよな…」
横にいる沖田に話し掛ける。
「はい?」
「こーいうのも…」
伊達が目を細める。
沖田は、薄暗い中、花火の明かりに照らされる伊達の顔を見つめていた。
「…ええ」
でも。
あんたがいたから。
あんたがいなかったら、いつもの夏と同じだ。
沖田は、伊達の横顔から目を離せなくなっていた。
それをわかっているのか、いないのか伊達は花火に火を点けてる奴に大声でいった。
「打ち上げ花火やれー!」
言われた奴は、大きめの打ち上げ花火を砂に埋め、点火準備をする。
その様子をまるで子供のように目を輝かせて、見ている伊達を少し呆れて沖田は笑った。
「結構音でけぇかな」
ワクワクした顔で沖田に笑いかける。
沖田も他の人には見せたことのない甘い笑顔で笑い返す。
その花火に火を点ける。
せっかくのメインイベントなので他の花火はあえてつけない。
真っ暗な海と空の空間が広がる。
「……」
「オイ!!!点かねぇじゃねかよ!!ちゃんとやれよ!」
「すいません!あれー?」
「何やってんだよー」
みんなに爆笑が起こる。
「もう一回点けまーす!」
打ち上げ花火に点火する。
みんなが火を点ける花火を見ていた。
その一瞬。
沖田は突然唇に温かいものが触れて、これ以上ないくらいびっくりした。
花火が上がるまでの。
たった数秒。
ドーン!と派手な音を立てて花火が上がる。
みんなが空を眺めている。
沖田だけは横にいる、同じように空を眺める愛しいひとを見ていた。
そのひとはまるで何もなかったように、口を開けて大笑いしながら花火を楽しんでいた。
―― はじめて。
―― 伊達さんから。
沖田は唇の感触を思い出しながら足下の砂浜を見つめていた。
これで本当に一生忘れられない夏になっちまった。
沖田は唇の感触をそのままに、みんなの輪に入っていった。
忘れられない。いや忘れさせない。
唇が触れるとき、聞き取れないくらいのつぶやきが聴こえたような気がした。
お前ばっかり、好きで、
お前ばっかり、キスしたいわけじゃねぇんだぜ?
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