よかった…。 どこかいっちまって…戻ってこないかと思った…。 6月27日。 日本国技館で行われたリカルド・マルチネスvs伊達英二の 世界タイトルマッチ。 結果は、10R・KO。伊達は試合後、担架で運ばれ即入院。 肋骨数本骨折、顎を複雑骨折、右手首を付け根から粉砕骨折という重傷である。 面会謝絶で家族と会長しか会えないという状態が続いた。 沖田はー。 自分の試合が勝ったことなど、まるでなかったかのように落ち込んでいた。 目の前で、初めて伊達が負ける所を見てしまったこともある。 自分の中の神話が崩れたせいもある。 しかし、それ以上に。 会いたかった。 会って伝えたいことがあった。 ボクサーとしてではなく、自分自身が。 でも今近くにいるべき人間は自分じゃない。 その人間が近くにいるのだからきっと大丈夫だろう。 でも。 会いたい。 一度だけ見舞いにいくことができた。 仲代会長が声をかけてくれたのだ。 白く無機質な病室は現実味を無くさせる。 「いつもお世話になっています」 妻の愛子がおじぎをした。 それにつられて沖田も会釈を返す。 『お世話になっているのはこっちなのに…』 白いー本当に白いだけの部屋でその人はさらに白い包帯を巻いて眠っていた。 包帯で表情はよく見えない。 目の前にしても、やはり実感はなかった。 それからしばらく、沖田は現実感のない毎日を送っていた。 あの人がいるのか、いないのか。 この手が感触を忘れないうちに…。 会いにいかなければ。 数週間後。 夜の病院は本当にひっそりしていた。 もうとっくに面会時間はすぎている。 ナースの目を見計らってこそこそと病室を探す。 そっとドアを開けると暗闇。しかし、人の気配はする。 そんなに遅い時間ではないが、眠っているのだろう。 窓からの光で顔はわかる。 そっとベッドの横に座り、顔を覗き込む。 そして少し驚いた。 ようやく包帯はとれたらしい。久々に見る伊達の顔。 しかし、ないのだ。 髭が。 顎の手術をしたのだから剃るのは当然としても、 毎日見慣れたものがないとものすごい違和感を感じる。 しかし、写真やビデオでしか見たことのない「髭のない伊達」は沖田の興味をひいた。 何だか…かわいいな…。 ふと笑顔がもれる。 声に出したつもりはなかったが、人の気配を感じ取ったのか、伊達が目を覚ました。 「ん…?」 寝起きの頭で誰か判断できないらしい。 「あ…すいません。伊達さん…。俺…来ちゃいました…」 「沖田…?」 「やっと包帯とれたって聞いて…前来たときは面会謝絶のときでちょっとしかいられなかったし… 昼間きても、奥さんたちに気ぃ使わせるのもあれだし…」 沖田は少し小声で、気弱そうにぼそぼそと話した。 それは単に二人きりで会って話したかったという言い訳だったからだ。 わざと遠まわしにいう自分が少し情けなくなってしまった。 「ありがとよ…」 ふと伊達が微笑んだ。それだけでもうこの会えなかった時間や試合のことなど全て ふっとんでしまうような。 「よかった…」 「?」 「あんた…もうどこかいっちまって…もう戻ってこないんじゃないかって…」 言葉につまって沖田は俯く。 「何いってやがんだ…。俺はここにいるだろうが」 伊達は少し驚いた。愛子にも以前同じことを言われたことを思い出した。 自分はこういう思いをずっとさせてきてるんだと痛感する。 そっと沖田の手をとって自分の顔に持っていく。 「まだ実感わかねぇのか?これが俺の顔だろうが」 「伊達さん…」 「目も鼻も口もあるだろうがよ」 「……」 「そんでもって」 その手を引き寄せ、身を少しだけ起こして沖田の顔に顔を重ねた。 「これが俺のキス。どうだ?」 「伊達さん…」 「何泣きそうな顔してんだよ。バーカ」 絶対泣かないと決めていた。だから泣かない。いや泣けない。 「じゃそろそろ帰ります…」 「ん…俺も近いうちに退院できっからよ」 「はい。じゃあ…あっ」 「ん?どうした」 「やっぱり物足りないんで、髭また伸ばして下さいよ」 「物足りねぇ?お前のためになんざ伸ばさねぇよ。ま、でもこれもかっこいいだろ?」 伊達は笑った。 「でもかわいすぎッスよ」 伊達は笑い顔から一変して、顔を紅潮させ照れながら、 「バーカ!とっとと帰れ」 そのままベッドにもぐりこんでしまった。 沖田はそんな伊達を見て笑いながらドアに手をかけた。 「じゃあ、また」 少しの沈黙ののち…。布団のなかから声がした。 「…おう。またな」 「また」…漠然としていても次があるってことは何て嬉しいことなんだろう。 約束なんてあってないようなものでも、本当に嬉しいことだ。 だから自分はまた笑えるんだろう。 沖田はそう思いながら夜の街を歩気だしていた。 |
<会いたい。・完>
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